最もテクノロジーと向き合う人、K.ケリーの著書「テクニウム」
異常なほどにマクロに、統一的にテクノロジーを考察している本「テクニウム」を紹介しようと思う。テクノロジーを生みだす人、テクノロジーを生み出そうと考えている人にはとても面白いと思う。
なぜ著者を最もテクノロジーと向き合う人といえるのか
著者は世界的なテクノロジー雑誌Wiredの創刊編集長であるK.ケリー。
彼はテクノロジーとは何かという疑問に相当とりつかれている。彼は世界的なテクノロジー雑誌Wiredを設立し創刊編集長を務めた。ハッカーズカンファレンスも共同設立した。現在は毎月50万人のユニークビジターを持つウェブサイト、Cool Tools を運営している。ここまでで十分に彼がテクノロジーに精通していることがわかる。しかし彼がユニークなのは、彼はテクノロジーを考えるあまりテクノロジーから断絶された生活も送ることだ。テクノロジーを生業としている人は星の数ほどいるがテクノロジーを考えるあまりテクノロジーから意図的に距離をとる人はほとんどいないだろう。彼はテクノロジーから断絶されたコミュニティー、アーミッシュに数年間身を置いたりテクノロジーに最も批判的な人たちの意見を聞いて回ったりもしている。(アーミッシュとは、テクノロジーから離れて自給自足を営む宗教集団。)今でも必ず週に一度はテクノロジーから距離を置く日をつくるという。
言われてみれば確かに、テクノロジーを客観的に考察するにはテクノロジーから離れることは必要不可欠に思う。テクノロジーの中にしかいたことがなければテクノロジーの本質はわからない。テクノロジーをとらえるにはテクノロジーの慣性から抜け出さなければならない。K.ケリーは最先端のテクノロジーとアーミッシュの人たちとの間を行き来するような唯一無二の存在だ。
本書での問題定義は「テクノロジーは何を望んでいるのか。」に尽きる。
K.ケリーは「これを読んだ人が、テクノロジーの恩恵を最適化しその損失を最少にする方法を発見するのに役立ててもらえればと思う。」と述べている。
「テクニウム」僕の解釈
K.ケリーはテクノロジーをとても広い範囲でとらえている。コンピュータ、ペン、石器、火、法律、宗教、、、。生み出された知識や技術などの新しいもの全てをテクノロジーとする。するとテクノロジーには自己増殖性があることに気が付く。新しいテクノロジーを活用してまた新しいテクノロジーが生まれる。この自己増殖性をもつ生き物のような集合を「テクニウム」という言葉を定義する。
テクニウムは自己増殖性をもつので、その本質や行きつく先を考えるにはよりマクロな視点でテクニウムの始まりから考察しなければならない。
宇宙の始まりまで遡り、大局的に流れを考察するとエクソトロピーとエントロピーが根源的な原理である。この世界はほんの小さな違いからはじまり、その違いが自己増殖的に拡大していき、原子が生まれ星が生まれ生命が生まれ人が生まれテク二ウムが生まれた。この増殖はまさにエントロピーの増大。しかし大局的に見ると、このエントロピーの増大も何かに集約していく性質がありエクソトロピーに向かう。例えば、独立した進化を遂げた生物が皆独立に「目」を進化させた。
テクニウムもその流れに組み込まれていて、自己増殖して進化し続けるもののその向かう方向は定まっている。
テクニウムには向かうべき方向性が定まっているので、それと逆向するように人間がテクノロジーを向けようとしても長期的には淘汰される。新しい発明を生み出したければ、テクニウムの進む方向に沿った発明を適切なタイミングで世に送り出す必要がある。(実際にグローバルIT企業のトップ層は驚くべき程同じような方向の未来を向いている。自動運転、宇宙開発など。皆がその事業の適切なタイミングを図っているように思う。歴史的な偉大な発明の数々も、独立に同時期に特許を申請した事例は枚挙に暇がない。)
テクニウムは自己増殖するのでその進化は指数関数的であり加速を続けていく。
では人間とテクニウムの関係性はどうか。人間とテクニウムの関係はお互いが子どもであり親であるのような関係である。テクノロジーの初期においては、人間にテクノロジーをどう育てていくかどのように活用するかがゆだねられているが、テクノロジーが成熟するとテクノロジーが人間を発明するようになる。テクニウムは人間の可能性、選択肢が増大する方向に向かっていくが、そのテクノロジーが成熟するまでにコストがかかる。成熟しきったテクノロジーは人間に選択肢を増やし、善である。(例えば、飛行機、ペン、本)しかしテクニウムが自立共生するまでの間、コストがかかることは事実。(例えば、核技術、遺伝子操作)テクニウム全体でみるとそれ自体は善。実際に私達の選択肢は増え続けている。選択肢が増えること自体は善である。そしてテクノロジーには善になる選択が必ず存在する。私たちの選択が悪になるか善になるかは別として。そもそもテクニウムの進化は止めることができず、その方向は定められている。しかし、人間の子どもと同様にテクニウムを育てることはできる。
人間の新しいテクノロジーとの向き合い方は次の通り。
- まずそのテクノロジーを試す。
- それまでの全ての選択肢と比較してそのテクノロジーをその活用方法で活用するか否かを決める。
- 悪いテクノロジーであれば良い活用方法を考え、元の想定した悪い活用方法は新しいテクノロジーを待つ。
人間はテクニウムの進むスピードを進めたり、遅らせたりすることができる。新しいテクノロジーをどの方向に活用するかを判断できる。テクノロジーの最適な活用の仕方を選択すればよい。テクノロジーがデメリットをもたらすならそれはそのテクノロジーの正しい使い方ではない。その使い方をする、よりデメリットのないテクノロジーはいずれ生まれる。
テクノロジーの進化は永遠と続くものであり、その進化によって私たちの選択肢、機会つながり、多様性、統一性、思想、美、問題を生む。これらが合わさってより大きな善となり、価値のある無限に続く変化となる。テクノロジーはこれを望む。
感想
ここまでマクロに統一的にテクノロジーをとらえている本を僕は読んだことがない。常にテクノロジーについて考えて人生を過ごしてきた著者にしか書けない本だ。テクノロジーを生き物として捉える考え方は斬新だし、おもしろい。
ここまで斬新なテクノロジーのとらえ方は読み手によって賛否が別れると思うが、僕としてはかなり腑に落ちるものがあった。ここまでの僕の解釈を読んでこの本の内容に懐疑的になっている人も多いと思うが(というかほとんど?)、僕自身が上手に内容を伝えきれておらず論理的な話の流れをぶっ飛ばしているせいであるところが大きいと思う。実際にこの本を手に取ってみて「やはりこの本の主張には納得がいかない」という結果になる可能性は拭えないとしても、この本の事物を極端にマクロにとらえるアプローチそのものを知れたことに価値を見出せることは保障する。テクノロジーに関心のある人なら読み物としても楽しめる。